株式会社IHIインフラシステム
総合企画部企画管理グループ部長技術士(建設部門)
牟田口 拓泉
私が橋梁エンジニアになりたいと思ったのは16歳の時でした。高校の修学旅行で、米国サンフランシスコを訪れ、朱色の美しい吊橋、ゴールデンゲートブリッジに感動したことがきっかけでした。そこで、就職では海外で吊橋を建設できる会社を希望し、石川島播磨重工業(現IHI)に入社しました。 入社後、5年間は国内外の新設橋梁工事の架設現場にて工事監督を担当し、6年目からは橋梁保全工事が主となりました。鋼橋の点検・調査業務や首都高速道路の鋼製橋脚隅角部補強工事の設計を担当した後、首都高速道路技術センターに2年間出向し、鋼橋の損傷詳細調査、診断および技術指導を経験しました。その後も、首都高速道路の補強工事等を担当しましたが、その中でも思い入れがあるのが、福岡県の若戸大橋の吊橋ケーブル大規模修繕工事です。 1962年に建設された若戸大橋は、国内長大吊橋の幕開けの先駆けとなった歴史的な吊橋ですが、開通50周年を迎えるにあたり、ケーブル関係の健全性の調査および大規模修繕工事を監理技術者として担当しました。健全性の調査、工事に当たっては未経験のことも多く、予期せざる損傷等に直面しましたが、学識経験者等からなる専門委員会の委員の方々や発注者、技術者、そして作業員まで、すべての工事関係者までが一つになってしごとをする本物のチームワークを経験することができました。数年後、再び、若戸大橋の鋼床版連続化工事の現場代理人として、本橋に携わることになり、何かしらの縁を感じる吊橋です。 その後、トルコ共和国のイズミット湾横断橋建設プロジェクトを経て、イスタンブールのボスポラス海峡に架かる二つの吊橋の第一、第二ボスポラス橋大規模修繕プロジェクトでは、副プロジェクトマネージャーとして工事を指揮しました。工事の多くは、若戸大橋で経験はしていましたが、工事数量は桁違いに多く、両橋合わせて40万台/日の交通を確保しながら、キャットウォーク架設、ケーブルバンド・ハンガーロープ取替、除湿システム設置、ロッカーリンク取替等、多くの危険な作業を伴う工事を実施しました。 プロジェクト関係者のほとんどは多国籍の外国人であり、外国の技術基準、外国語でのコミュニケーション、そして多種多様な文化・考え方などにも苦労しましたが、時間をかけて、お互いに認めていくことができました。また、現場では主としてワーカーに起因した、日本ではあり得ないトラブルが毎週、次々と発生し、その対策と措置に追われる中、ひととしてのありかた、己の人生における価値観、目標、そしてなぜこの国で、このしごとをしているのか等を自問することもありました。しかし、現地の若いエンジニアを日々、指導、育成していく中で、彼らが将来、技術をもってこの国の発展に貢献していくことが私なりの国際貢献であるとの思いを胸に、しごとをすることができました。 これまで多くの方々の支えによって、鋼橋の保全技術者として、数多くの橋梁プロジェクトに携わってくることができました。若い頃は、橋を現地に架けたという達成感に、しごとのやりがいを感じていましたが、徐々に、日本および国際社会への貢献が私のしごとのやりがいとなっていきました。現在は、本社管理部門にて企画業務をしておりますが、これからも利他の心をもって、社会に貢献していきたいと思います。 次回は、今年9月までの3年間、国道2号淀川大橋大規模更新工事の元請JⅤとして、苦楽を共にした横河NSエンジニアリングの髙橋啓輔氏にバトンをお渡しします。