「感謝と恩返し」を胸に

木村 輝一株式会社タダノ
国内営業企画部高所グループ
木村 輝一

1979年4月に私は多田野鉄工所(現タダノ)に入社しました。四国は高松で生まれ育った生粋の讃岐っ子が、「世の中のお役に立てる物づくりをしたい」の志を胸に大学では機械工学を専攻、4年間を川の街広島で過ごしました。入社後は大型クレーン、高所作業車の開発に携わり、直近18年間は高所作業車の営業と開発の橋渡し役の営業スタッフとして現在に至っています。 入社以降、「橋」とは無縁のはずの機械屋の私が畑違いの橋屋さんの業界紙になぜ寄稿を依頼されたのか、橋との関わりを振り返ってみました。 まず92年の「スーパーデッキ」開発が橋との出会いだったと思います。当時主力製品であるクレーン以外の分野への進出を画策していた当社の方針により、クレーン開発から離れ新商品の企画部署に異動。そこで当時世界でも類をみない積載荷重800キログラムの大きなデッキと1レバーで垂直水平移動ができる画期的な操作システムを採用した高所作業車「スーパーデッキ」の開発に参画することになりました。今でこそ高架橋の吊り足場の設営・撤去に欠かすことができない製品となっていますが、94年発売当初は思うように売れず、売れても稼働は今一つという状況でした。転機が訪れたのは発売翌年の95年、阪神・淡路大震災でした。この未曾有の災害の応急復旧で、「スーパーデッキ」は、その作業効率や利便性の高さに注目され急速に普及、今日では多くの現場に採用されています。 二度目の橋との出会いが2000年、橋梁点検車BT―200の新規開発の最中、突如大型橋梁点検車の開発依頼が持ち込まれました。さすがに掛け持ちはできず、急遽大型橋梁点検車の開発に鞍替えし、開発リーダーとして陣頭指揮にあたりました。これが開発時代の置き土産とも言うべき「BT―400」です。 02年の1号機納入後約2年間、マーケティング力強化の一環となる顧客との交流の中で「お客様にもっと近いところで仕事がしたい」との思いが芽生えました。 営業へと異動し、まずは「開発には、営業の意見を製品に反映して貰う。営業には開発の製品に込めた思いを伝える」と橋渡しとなるべく挑戦を始めましたが、すぐに製品販売の大変さを思い知ることになりました。  橋梁点検車の転機は、07年の「長寿命化修繕計画策定事業の創設」だと思います。笹子トンネル崩落を契機にインフラの老朽化が明らかとなり、「事後保全から予防保全へ」の政策転換が鮮明となりました。これに必要なのは橋梁点検車。発売後わずか40台しか売れず生産中止となったBT―200の再販に向けリニューアルを画策。「40台は売るから」と開発に頭を下げて回りました。当時はこれが精一杯の販売目標でしたが、14年「5年に1回の定期点検」の義務化でBT―200の販売台数はうなぎ上り、ついに想定外の約600台を記録しました。 特需とはいえ橋梁点検車の売上貢献も大きく、高所作業車部門の売上高が過去最高となった17年3月に定年を迎えました。我ながら出来すぎた幕引きだと思いますが、一方まだやり残したこともあり、社内やお世話になったお客様への『感謝と恩返し』の集大成として、それまであたためていた橋梁点検車の開発コンセプトをカタチにしたいと思っていました。会社にもそんな気持ちをくんで頂き、会社に残り開発に参画、昨年9月に発売の「BT―300」はタダノにおける、そして「機械屋」の私の卒業作品となります。その評価は今後の楽しみに。 「橋」を通し、社内外のお世話になった方々への伝えきれない感謝の気持ちを胸に抱きつつ、まだまだ社会のお役に立ちたいと自問自答を続けています。そして卒業作品と言いながら、未だ技術者魂は衰えることのないもう一人の自分がいることも感じています。 次は、縁あって北の大地で友好を深め、BT―300企画の際にも助言をいただいたドーコン構造部の大山高輝さんにリレーします。

愛知製鋼