エム・エム ブリッジ株式会社
生産・技術部市原工場主席
武田 有祐
私が橋と出会ったのは1993年4月、社会に出るのと同時です。木更津工業高等専門学校では、機械工学科でしたので、橋については「川の上の道路の一部」といった程度の知識しかありませんでした。そんな私が、三菱重工業に就職し橋をつくる部署に配属されたのも何かの縁です。 横浜製作所の鉄構工作部に配属されて以降、現在に至るまで、一貫して製造部門で橋梁に携わることになります。屋外ヤードでは、東京湾横断道路の鋼製橋脚がほぼ完成し、浜出しを待っている状態でした。高くそびえるその橋脚の基部へと、指導員に連れて行かれ、ハケとペンキを渡されました。現地で据え付けたとき、海中でコンクリートを充填するときの、ダイバーの目印になる管理番号を、充填孔の一つひとつに書き入れることが、このときのミッションです。「これが終わったら橋脚のてっぺんに連れて行ってやる」ということで、垂直梯子をひたすら登ってたどり着いた、地上約50メートルの脚頂部からの眺めは格別でした。 ただ、吹きさらしで潮風をまともに受けるため、恐怖に近い緊張感は、今思い出してもキュッとなります。地上に戻り、改めてその巨大な構造物を見上げ、当時の初々しかった私は「いつか自分も」と思うのでした。 3年目を迎える頃、業務内容は補助的なものから、主担当へと移行していきます。新設橋梁以外にも、支承や連結装置の取り替え工事やペデストリアンデッキ、異色なところではシールドトンネルの鋼殻製作などを担当しました。 10年目には、いよいよ念願の地組立を伴う大型工事を担当します。東京都の有明と豊洲を結ぶ、東雲運河に架かる東雲2号橋です。2径間連続鋼床版箱桁ですが、橋長は約250メートルもあり、上り線・下り線・新交通桁の3橋が平行に並び、総重量は3770トンに及びます。9分割して地組を行い、約1カ月ピッチで浜出しします。そのうち4回分の地組が弊社の担当でした。 フローティングクレーン(FC)で吊ったまま東雲運河を遡上して架設するのですが、架設のタイミングが潮位に左右されるため、待ったなしの非常にタイトな工程でした。 早朝、工場にFCが着岸するあたりから現場のムードは一変します。ワイヤリング後、FCのスピーカーから巻き上げ張力のカウントが始まり、張力が90%を超える頃にはすでに架台から離れる受点が現れ始めます。 海面の上下で吊った桁と架台がぶつかり合ってしまうので、ここからは一気に巻き上げ、地切りします。待機していた台船に載せ、現地へと曳航されて行く姿を岸壁から見送るときは、例え様のない達成感で目頭が熱くなりました。 14年目には、横浜から広島へ転勤になります。橋梁事業を、広島工場に集約することが決まり、家族を引き連れ転居しました。広島は住み良いところでしたし、小学生の子供たちも、すっかり広島弁が板に付いてきた頃、千葉に工場を新設する話が浮上します。ちょうど4年が経過したときでした。悩みましたが、生まれが千葉でしたので、異動を決め現在に至ります。 振り返ってみると、仕事とは一期一会の繰り返しだと痛感します。これからも一期一会を大切に正面から取り組んで行きたいと思います。 次は、千葉への異動がご縁で多岐にわたりお世話になっております、駒井ハルテックの板橋健一様にバトンをお渡しいたします。