深田サルベージ建設株式会社
営業本部部長代理
岩坪 英祐
子供の頃、年に数回両親の出身地である長崎県の五島列島に帰省していましたが、五島列島は離島と言うこともあり、佐世保からフェリーに乗船し約4時間近くかけ移動していました。その頃より本土と島が橋で繋がることで24時間移動できる交通手段を確保でき、島民の医療や産業の向上が図れるのではないかと思っていました。 工業高校に進学する際の面接試験で、面接官の先生に、「将来の夢は?」と質問され「離島の住民がいつでも本土と行き来ができる様に橋を架けたい」と答えたことを覚えています。 工業高校では、主に土木・土工を学ぶことが多く橋梁については学ぶことがなく、離島に橋を架けたいという思いを忘れかけていました。そんな時、高校三年生の誕生日に見ていたテレビに映った本州と四国を結ぶ瀬戸大橋開通の映像を見て、離島に橋を架けたいと言う想いが呼び起こされました。 その後、深田サルベージ建設に入社し、九州支店工事課に配属されました。入社一年目は、新門司のフェリーターミナルの護岸据付工事や宮崎港のフェリーターミナルの護岸据付工事に従事しました。 二年目に入り、念願の離島に橋を架ける工事に携わることができました。架橋は、平戸市と生月島間の辰ノ瀬戸を跨ぐ橋長960mの3径間連続曲弦下路鋼トラス橋を当社所有の3600t吊起重機船「武蔵」を使用し3径間全てを架設するものでした。この現場は潮流がとても速く、先輩方が架設のスケジュールや大型起重機船の係留方法を夜遅くまで計画されていたのを覚えています。 生月大橋の架橋に携わった後も長崎県五島の中通島と若松島を繋いだ若松大橋の架橋等に携わりました。九州で経験した急潮流の現場の経験は、その後、潮流のある海域の現場での計画に生かすことができました。 次に赴任した、今治と大島の間にある来島海峡の架橋に関わったことは、非常に印象深く覚えています。来島海峡は、日本三大潮流の一つで潮流が速い上に国際航路で一日700隻を超える船舶の往来があり、その様な過酷な海域での架橋作業はこの上なく困難なものでした。 しまなみ海道の補剛桁架設は、日当たり約700隻を超える船舶が行き交う国際航路であり航路を通航止めできないことから、台船にタグボートと同じ推進器4台を艤装した自航台船に補剛桁を積込み架設しました。自航台船を使用することのメリットは、起重機船と違い、係留設備を使用しないことから作業時間を大幅に削減できることや、航路の占有面積が自航台船の面積で済み一般航行船舶の可航幅が広く取れることにあります。 補剛桁を自航台船からハンガーロープに吊上げる設備には、クイックジョイントが採用され、玉掛け作業の時間削減が図られました。本番の補剛桁架設を行う前に、実際の現場海域で自航台船とクイックジョイントを使用しテストを繰り返し行い、作業の習熟度を高め架設に挑んだことで、事故無く全補剛桁の架設を終えることができ、最終桁を接合した後に接合桁上に作業従事者が集まり記念撮影をしたのは、過酷な現場をやり遂げた充実感と達成感として今も心に深く刻まれています。 しまなみ海道において、自航台船やクイックジョイント等の特殊な船舶や機材を使用した工法は、後にも先にもこの現場だけでした。 高校進学時の面接の質問に、「離島の住民がいつでも本土と行き来が行える様に橋を架けたい」と答えてから、37年の間に生月島を初め四国のしまなみ海道と言った離島と本土を結ぶ橋の建設に数多く携わり、貴重な経験を積めたことは、技術者冥利に尽きます。 今後は、これまでの現場で先輩から学んだことや経験し得た現場のノウハウを絶やすことなく若い人達に継承するのが役目と考え、指導にあたりたいと思います。 さて、次回はしまなみ海道での補剛桁架設時に自航台船に乗船し共に現場に従事した、寄神建設の石田雅博さんにバトンをお渡しします。