人生、日々勉強

長坂 康史川田工業株式会社
鋼構造事業部 保全推進室 課長
長坂 康史

1993年の春、立命館大学理工学部土木工学科を卒業。4月に鋼橋メーカーの川田工業株式会社に入社し、早いもので26年が経ちました。川田工業との出会いは、当時、出始めだったCDケースに音楽の歌詞カードの如く記された会社紹介のダイレクトメールでした。数十社におよぶ会社案内の中で最も際立っていたため、手に取ったのがきっかけです。橋梁・鉄構・建築・ヘリコプターなど、多くの事業を展開していたこの会社に魅力を感じ、入社したことを覚えています。
そんな少し軽い気持ちで飛び込んだ橋梁業界だったため、入社後は本当に厳しい10年でした。2年目の1995年1月に発生した阪神淡路大震災では、神戸の街へ橋梁調査に行った際、崩れ去ったビル、橋、道路を見て、自然界の厳しさと構造設計の重要性を痛感しました。当時、在籍していた設計部門では、多くの復旧現場に繰り出された設計技術者とは対称に、私は人手不足となった多くの受注物件を担当し、今では四苦八苦しながら取り組んだ記憶しかありません。ただ、鋼橋の設計に20年、工事に3年、主に設計部門に身を置きながら、振り返れば、いつの間にか「橋の魅力」に憑りつかれていた気がします。現在は4年前に新設された保全推進室にて、鋼橋の保全に関する研究開発に従事しています。
私の橋梁技術者として、礎となった橋が3つあります。
ひとつ目は名古屋高速道路公社の「新川工区」です。入社して8年目の2002年3月、3社JVの親会社として、初めて設計の代表的な役割を任せられ、鋼橋および鋼製橋脚の詳細設計、JV親会社としての対応、設計基準と標準図を元に設計の基礎的な部分を学び直すきっかけとなりました。ふたつ目は2006年に完成した「新桜宮橋」です。大阪市内の国道1号、大川に架けるローゼ橋でした。土木遺産でもある桜宮橋(通称:銀橋)に並列し、銀橋をしっかりと際立たせながら、それぞれが主張を忘れない、景観に配慮した橋でした。銀橋に合せたアーチライズと1・5倍の支間長は極端に扁平な形状を呈し、アーチリブと補剛桁は鋭角に交わるため、製作性に配慮した隅角内の構造を求めて初めてFEMに触れました。また、132本もの吊ケーブルに対する施工法と張力調整法の検討に苦心したことを思い出します。多くの設計要素と施工要素をこの1橋で学びました。みっつ目は「伊良部大橋・主航路部」です。2010年に沖縄県より受注した3径間連続の多室箱桁橋(当JV施工は1径間)であり、宮古島と伊良部島を結ぶ離島架橋でした。沖縄の外洋に位置するため、風速83m/sの耐風設計と100年の耐久性が求められた橋梁です。沖縄地区の厳しい自然環境と防錆技術について学び、現在所属する保全推進室にて研究開発を行うきっかけになりました。
保全推進室は将来のメンテナンス時代に向け、新しい材料やアイテムを開発する部門です。厳しい環境に耐え得る新材料の提案、旧橋の補修・補強に利用できる構造の研究を実施しています。また、私は現在、琉球大学大学院にて、鋼橋保全を対象とした後期博士課程にチャレンジしています。指導教員である下里哲弘先生には、これまで接点のなかった研究開発において、多くのご指導を頂き、卒業を目指しています。基準の改訂、構造改良、橋梁保全など、常に絶え間ない進化を遂げる橋梁業界において、人も常に進化と変化が必要と考えています。これまでの常識に捉われず、常にチャレンジする気持ちを忘れずに、これからも我が家の家訓である「人生、日々勉強なり」を信念に日々精進したいと思います。
次回は、琉球大学博士課程を卒業した先輩で、大学での研究のアドバイスをはじめ、いつも大変お世話になっています一般社団法人沖縄しまたて協会の玉城喜章さんにバトンをお渡ししたいと思います。

愛知製鋼