吾唯知足2020年2月21日号掲載分

吾唯知足橋は、地域の社会・生活インフラとしての役割と共に地域の歴史も負う▼記者は上京以来、盛岡に帰省した際はまず、同駅東口からほど近くにある「開運橋」へ向かった。後に、この橋には別称「二度泣き橋」という由来を知った▼この橋にたどり着いた人は「なんとまあ、こんな遠いところ(土地)まで来てしまったのか」とまず、涙を流す。市内の歴史や人情に触れ、帰途で橋に差し掛かる時、今度は去りがたい気持ちが彷彿し、また涙する、二度泣き橋の別称を持つ所以だ▼駆け出しの頃、斜張橋はまだ広まっておらず、本四の瀬戸大橋がゲルバートラス橋から斜張橋に変更されるかもしれないとの情報を報道すると、そのスレンダーな形状が全国の橋梁技術者の注目と関心を集めた▼その後、本四の斜張橋は全国に拡大して行き、「斜張橋ブーム」に沸いたのは、周知の通りだ。日本の斜張橋の歴史は神奈川・勝瀬橋、弥栄大橋、本四(岩黒島橋・櫃石島橋)が先導役となって横浜ベイブリッジなどへつながり、橋梁技術の発展に大きな足跡を残した▼全国には橋梁が約70万橋あるが、それぞれに役割と歴史を担う。その由来と所以は、「紙碑」(紙のいしずえ)を自負する小紙にとって令和時代の〝任と責〟であると心している。

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