卒業式シーズンになると、はるか昔(昭和50年頃)のしまなみ海道の工事始まる前のことが思い出される▼石油ショックで本四架橋もその影響を受け、全く先行きが不透明な頃、記者は今のしまなみ海道沿いに当たる島々を渡船に乗って今治まで取材に出かけた▼照明まで消された薄暗い待合室で島々へ帰宅する高校生らしき生徒達と一緒になった。彼らは次々と出身の島々で下船、記者だけが尾道港まで向かった。彼らはその後、因島大橋、大三島橋、多々羅大橋、伯方・大島大橋、生口橋などの工事進捗を渡船から眺めて通学、育ったはずだ▼石油危機で無期限延期となった本四は、3ルートのうち、瀬戸大橋の児島・坂出ルートがとりあえずの基幹ルートに決められた以外無期限凍結となってしまった▼この総需要抑制策の突破口となったのが、尾道・今治ルートで、とりあえず、大三島橋を地域開発橋として、先行橋となった。このアーチ橋、大三島橋が先発して起工しなければ、瀬戸大橋群はおろか大鳴門橋、明石海峡大橋等の着工はいつになっていたのか、と。ひいては本四だけでなく、レインボーブリッジなどまで進行したかどうか。わが国の今日の橋梁の裾野を思うとき、大三島橋の存在は語り継がれて良い。