株式会社日本ピーエス
営業推進グループ技術チーム チームリーダー
米倉 宣行
私は1995年に日本ピーエスに入社し、今年で25年が経ちました。あらためてこの25年という数字をふり返りますと、実に様々な思い出が蘇ってきます。前号の渡辺孝一先生からバトンを受け、リレー橋友録に執筆できることも何かのご縁と感じますので、この機に私の「橋歴」を思い起こしてみたいと思います。 私は特別「橋」という構造物に興味があり今の会社に入社したという訳でもなく、ただ「もの作りがしたい」という気持ちだけでした。幼いころから大工さんの真似ごとや、時には本当に大工さんに交じって釘を打ったり、のこぎりで木を切ったりしていました(お手伝いというよりも仕事の邪魔ばかりしていた感じです)。 そのような性格が良かったのか悪かったのかは分かりませんが、高校、大学と土木課を専攻し、測量、土質、コンクリート材料学などを学んでいきました。大学4年生の就職活動で受けた会社が不採用。落ち込んでいた私に研究室の教授が、「橋梁の仕事をやってみないか」と声をかけていただき、今の会社に入社しました。これが、私と橋の最初の出会いです。 3カ月間の新入社員研修を受け、名古屋支店(現在の中部支店)に配属となり、すぐに三重県の現場に従事しました。当然右も左もまったくわかりません。職人さんたちからは新入社員だからということで遠慮するわけでもなく、「桁の墨出して」「支承の高さ見て」「配筋写真早くとって」等々、様々な指示が飛んできました。そのたびに「ちょっと待ってください、先輩に聞いてきます」と、私は現場と事務所を行ったり来たりしていました。 それから1年後、初めて小規模現場を任されました。職員は私一人。とにかく失敗をしないように何度もチェックを繰り返しながら現場を進めていました。当時はスマートフォンなど手軽に操作できる通信機器はまだない時代。施工の進め方などの相談はすべて近くの公衆電話から先輩や上司に聞いていました。小さな橋ではありましたが、地域の方々にとってはなくてはならない橋、「渡りやすく広い橋になったよ」と声を掛けられた時には、言葉にはできない思いがこみ上げてきました。 月日は流れ2年後、高速道路の橋梁建設工事に6カ月間従事しました。ここでは支保工を組み立て、現場でコンクリートを打ち込み構築していく橋梁を任されました。「すべて一人でやってみろ」。上司の言葉もあり、がむしゃらに仕事をこなしていました。 ある日の早朝私は、「大雨が降っているのに現場の状態が気にならんのか!見てこい!」と上司にたたき起こされ現場確認に急ぎました。幸いにも異常はなかったのですが「現場を任される」ということは強い責任感が必要だということを痛感しました。 私にとって、最初のターニングポイントとなる現場でした。この現場以降も高速道路の橋梁や中部国際空港へのアクセス橋など、大型現場に幾つか従事しましたが、この時の現場経験から全く不安なく現場を進めることができました。 私は現在、本社にて内勤業務を行なっています。これまで私が従事した橋梁建設現場は、大小あわせて約50橋を数えました。そのすべてが私を「橋梁の技術者」へと成長させてくれました。 次回は、福井県コンクリート診断士会での活動がきっかけとなりお世話になっております、帝国コンサルタントの植村一盛様にバトンをつなぎます。