東日本高速道路株式会社 東北支社
建設事業部構造技術課 課長
塩畑 英俊
土木工学科に進学した私は子供の頃から車やバイクが好きだったこともあり、これらを支える「道路」に関係する仕事に就くことを希望し、学部卒業後、日本道路公団に就職しました。途中、分割民営化があり現在の会社となりましたが、通算して入社から24年目を迎えるに至っております。ちなみに、今でも走ることが好きなのは変わらず、単にドライブでは飽き足らず、サーキットを走ったり、レースに参加することもあります。私は何かを始めるとのめり込んでしまうタイプかも知れません。 この記事で経歴を紹介なさった皆様は学生時代から橋梁分野に携わっておられた方が多いように見受けられますが、学生時代不真面目だった私は、成績順での選択だったこともあり、希望の研究室に入ることが叶いませんでした。卒業研究は橋梁とはほど遠い地球流体力学に関する分野でした。 そんな私が橋梁に出会ったのは会社に入ってからであります。そこで橋梁の耐震補強を担当したことを皮切りに私の橋梁人生がスタートしました。私が入社した1999年は、95年に発生した兵庫県南部地震による橋梁の被災を受け、盛んに耐震補強事業を行っていた時代でありました。特に最初の勤務地だった福井県は震源の兵庫県から近かったこともあり、2002年度までに管理事務所管内の耐震補強を終わらせることを目標に事業を進めておりました。学生時代に橋梁に関する勉強を全くしてこなかった私は、そこで道路橋示方書という基準類の存在と、これに基づいた補強設計が求められることを知り、それを達成するためには基準類を理解する必要があること、しかしながら自分にはその力量がまったく及んでいないことを痛感したのを覚えております。 時を同じくして、先輩から「橋梁分野は理解しなければならない基準類などが多く、難易度も高いため、社内でこの道を目指す人材が少ない」と聞き、だったら自分が志してみようとメラメラとやる気を沸かせていたことを思い出します。それから日々勉強を続けてきたつもりですが、残念ながら現在でも勉強不足の毎日ですが。 当社は2年から3年程度でジョブローテションを行います。私は現職が九つめの部署になります。そんな会社人生の中で最大の転機が四つめの部署への異動となった2007年に訪れました。高速道路総合技術研究所への出向です。 所属先は橋梁研究室で、上司は現在でも当社の橋梁技術をリードする本間淳史室長(現当社技術本部総合技術センター長)でした。ここでの仕事でお会いする方々が大きく変わりました。土木学会をはじめとする公的な委員会での活動を通じて、大学の先生や国内をはじめとする各研究機関の超一流の方々とお会いする機会が増えたのです。また、その中で道路インフラを支える会社の考えを発表する機会も増えるようになりました。 これらの活動を通じて、特に同世代の研究者の方々とお会いするたびに自分の勉強不足を痛感するようになり、技術士などをはじめ資格取得を通じて勉強するとともに、当時、共同研究でお世話になっていた下村匠先生にご指導を仰ぐため、2010年春に長岡技術科学大学の大学院博士後期課程に入学しました。結局、会社業務との二足のわらじを履きながらだったこともあり、学位取得までに7年を要してしまいましたが、その間、下村匠先生は温かく熱心にご指導して下さり、そのおかげもあり、研究内容を投稿した論文が2017年土木学会田中賞論文部門を受賞するに至りました。 学会での活動は様々な分野の超一流の研究者の方々とご一緒させて頂く機会が多く、常に良い刺激があり、勉強の日々であります。これまで多くの方々とご一緒させて頂き、多くのご指導を頂きましたが、その中でも現在の私の思想の支えとなっているのは、北武コンサルタントの渡辺忠朋副社長とご一緒させて頂いた土木学会コンクリート委員会の鉄筋コンクリート設計システム研究小委員会(通称:340委員会)での活動です。道路インフラを支える会社の一員として、コンクリート構造物に対する「良い設計」について考えさせられました。 今でも私の中で答えは見つかっておりませんが、日々探求しております。現在は、コンクリート構造物のライフスパンシュミレーション技術によって実構造物の任意の時間軸におけるありのままの振る舞いを、精度よく再現することに取り組もうとしております。これについても日々勉強が求められますが。 次回はこの同じ活動でご一緒させて頂いており、また、同世代で良い刺激を頂いております鉄道総合技術研究所の仁平達也様にリレーさせて頂きます。