日本ファブテック株式会社
製造部製造管理課係長
栗下 健児
私が初めて橋に興味を持ったのは大学時代のことです。大学が熊本にあり、友人と熊本県宇城市から天草方面に行ったときに見えた天門橋の形に魅せられ、この橋はどんな構造でどのように製作されているのかに関心を持ちました。橋に関わる仕事に将来を託したいと思っていたところ大学の先生に薦められて、1992年に橋梁メーカーの当時片山鉄工所(現日本ファブテック)に入社しました。配属されたところは製造技術課という鋼橋の工場製作における施工計画・管理、試験、研究等を担当する部署でした。入社当時は工場製作について解からないことばかりで、先輩方に様々なご指導を頂きながら、工場内で図面と実際の部材を見比べて構造や図面の見方等を勉強しました。 その当時、印象に残っている出来事は工場内で製品の確認をしていた時のことです。一緒に作業していた先輩から「シノを取ってくれ」と言われ、「シノ」が何なのか分からないまま立っていると目の前にあったラチェット(ボルトを締め付ける道具)を手に取って「シノも知らないのか!」と叱られました。後にラチェットの尖った先の部分を「シノ」と言い、ボルトの孔合わせ等に使う道具と知りました。私の橋梁技術者としての人生は、道具の名前を覚えることから始まりました。それ以後、社内、社外を含め様々な方から橋梁製作に関する技術、技能を教えられました。 そんな中、入社1年目の私にとって願ってもない工事に携わることが出来ました。それが世界一の吊り橋「明石海峡大橋の補剛トラス桁」の製作です。明石海峡大橋は、当時の橋梁ではあまり使用されていなかった高張力鋼材(HT780)が採用されており、工場製作に先立って、鋼材の特徴、溶接方法や溶接条件の確立、製作手順、寸法管理等の細かい検討が必要でした。その中でHT780材の溶接施工性や溶接品質等に問題点がないことを確認するために、実寸大のパイロットメンバーを用いた溶接施工試験も経験させて頂きました。入社して間もない時にこのようなビックプロジェクトに携わることで、ものづくりの基本と最新の知識を勉強できたことは、現在に至るまでの私の礎になっています。 その後もI桁、箱桁、鋼床版、橋脚等の様々な構造物の工事を担当し、製作に係わる諸検討はもちろん、工程や品質、出来形に関する業務を経験しました。その中でも複雑な構造体では、実物大模型や3Dシミュレーションを用いて施工方法の検討を行い、できるだけ現場の声を反映しながら改善点等を整理し蓄積することで、次の工事にも生かせるようにしてきました。しかし、鋼橋は全く同じ構造のものはなく同じ橋梁形式であっても、施工条件の違いから各工事での製作における問題も異なり、必要な検討事項が多くなります。それをこれまでの経験を生かして、設計思想を考慮しながら部材製作し、現場で無事に架かった橋の姿を見ると非常に達成感があり、社会に貢献しているのだと実感します。 社会に出て28年目になり、これまで鋼橋の工場製作を管理する技術者として、橋のものづくりに携わってきました。その中で培った知識や技術を今後の役に立てたいという想いと、この経験を次代を担う橋梁製造技術者に繋ぎ、更なる鋼橋の発展に寄与できればと思います。 次は大学時代の同級生で同じ研究室で共に汗をかき、今もいろいろとお世話になっている高田機工株式会社の坂本一弘さんにバトンをお渡しします。