橋梁に学ぶ

金城 博

一般社団法人沖縄しまたて協会
専務理事
金城博さん

琉球大学工学部を卒業後、旧建設省に入省。終戦後に米軍統治下へ置かれ、1972年にようやく本土復帰を果たした沖縄から初めて採用された国家公務員上級職として注目を集めた。那覇新港を擁する那覇市安謝(あじゃ)が地元。幼少期に進められた地元の港湾整備事業に影響を受けて土木を選んだ。入省後に配属された山口工事事務所では山口BPの整備を担当した。ゲンジボタルで有名な一の坂川を跨ぐ橋梁部の計画では、環境保護やコストの問題に苦労する。当時を「橋梁事業は技術以外にも課題が多く、柔軟な発想や対応力が必要と学んだ」と回顧する。その後異動した岡山工事事務所では柔軟な対応力を発揮する。本四高速が進めていた瀬戸中央自動車道の早島ICへの接続に備え、岡山BP側も暫定4車線から6車化する工事が急遽開始されることになった。「猶予が数カ月しかなくて」と苦笑するも、歩道部を車道に再整備し、新たな歩道に組立式を採用することで短工期を克服したという。郷里の沖縄では、沖縄総合事務局開発建設部で南部国道事務所長や技術企画官を歴任した。沖縄の橋梁を「本土に比べ塩害による被害が悲惨。補助事業で架け替えた野甫大橋は飛来塩分でシースまで完全に破断していた。学生時代に『PC構造物は永久品』と習ったがこの地では通用しない」と評する。最後に「実際の橋梁から学ぶことは多い」と語り、自身が担当した橋梁にはPEシースやフライアッシュコンクリート、エポキシ樹脂被覆塗装鉄筋など万全な塩害対策を実施。その上で、現在も柔軟な発想力を発揮しており、「台風後に橋梁を丸洗いして、台風で巻き上がった海水を洗い流せば橋梁の耐久性が上がるのでは」とユニーク半分に提案中だ。琉球大学工学部土木工学科卒業。沖縄県出身、1956年生まれの63歳。 (山田由乃)

愛知製鋼