古河産機システムズ株式会社
コントラクタ本部 小山栃木工場工事部 工事課 技師長
大須賀 弘
大学時代は建築学科を専攻しており、卒業後就職先は建築または土木の技術者の職に就くことを決めておりました。 1990年に古河鉱業から古河機械金属に社名を変更した年に、縁あって古河機械金属に就職し、機械式立体駐車装置の設計部に配属され、当時主流だったマンションの機械式駐車場の設計の仕事に6年間励んでいました。 その後橋梁設計課に配属され(後に2004年に古河機械金属から分社化された古河産機システムズの橋梁設計課となります)、当時の思い出としては、橋梁の図面は表記が独特で同じ建築の図面と大きくことなり、戸惑いを覚えた記憶があります。 右も左も分からず、名称も初めて聞くことばかりで、付いていくのが精いっぱいでした。上司や同僚の適切な指導、後輩からのアドバイスは大きな力になり、何とか肩を並べて仕事ができるようになり、指導していただいた方々には感謝の言葉しかありません。 2000年には工事部に配属となり、最初に現場を担当したのは、北海道秩父別町の秩父別川に架かる町道の橋で総鋼重88㌧の鈑桁橋鋼単純非合成鈑桁で、それほど大きくない橋でしたが、河川内にベントを設置、大型クレーンでの架設、RC床版施工と、現場の経験がなかった私にとっては、不安と緊張の連続で、夜も寝ることが出来なかったことを思い出されます。 また、北海道の冬季の施工でしたので大雪、氷点下の低温に見舞われ、現場塗装および床版コンクリートの品質の確保に苦労しました。現場工事にあたっては、特に現場での思いがけない事象、不可抗力を予測し、事前に緻密な計画をすることの重要性を痛感しました。 橋梁の工事で一番思い出に残る現場は、2005年ネクスコ中日本の第二東名高速道路逢坂第一高架橋(鋼上部工)下り線工事です。高田機工さんとの共同企業体で、現在の第二東名高速道路新清水ICのランプ橋3橋、本線高架橋1橋の鋼桁橋の総鋼重1480トンでランプ橋2橋と本線1橋はクレーンベント架設、ランプ橋1橋を送り出し架設、床版はRC床版、PRC床版の工事でした。 特に手延べ機を使用し、S字の桁の送り出し架設は初めての経験であり、計画通りに施工ができるか不安でいっぱいでした。現地に乗り込んでからは、やはり現地と計画が異なり手延べ機の構造が変わったため、主桁製作が完了しているにもかかわらず、箱桁断面の補強リブが不足していることが判明、急遽補強リブを増やし桁搬入までに何とか間に合わせたということがありました。ここでも緻密な計画の重要性を実感した次第でした。 最後になりますが、橋梁は道路インフラの花形だと思います。開通式では待ちに待ったと喜んでくれますし、地元の方々から感謝の言葉をいただいたときは、橋梁の仕事に携われて本当に良かったと、今までの苦労も吹っ飛んでしまいます。今後、橋梁の技術者を目指す若者が一人でも多くなるよう、そして就職しもらえるよう、われわれ経験豊かな技術者が橋梁の魅力を後世に一つでも多く伝えて行けたらと思っています。 昨今では公共事業への厳しい世評を受けることもありますが、橋梁は社会に貢献でき、地域住民の役に立ち、そして地図に残る仕事が最大の魅力と感じています。 次は八ッ場ダム工事の隣接工事でお世話になりました北都鉄工の笠鳥隆さんにバトンを託します。