魅力と夢のある橋梁業界へ

板橋 健一株式会社駒井ハルテック
理事 生産技術本部和歌山工場長
板橋 健一

1991年に株式会社駒井ハルテック(当時は駒井鉄工株式会社)に入社して以来、30年近く鋼橋に関わりをもって仕事をしてきました。なぜこの業界に?と振り返ってみると高校生の頃、知人に造園業を経営されている方がおり、その方の自由なライフスタイルに憧れがありました。一応、進学校に通っていたので大学は農学部とか土木、建築かなと安易に考え、たまたま合格したのが土木工学科でした。 そのうちに就職を考える時期が来て、お世話になった先生に橋梁メーカーもあるぞと言われ、そこでもあまり熟考すること無く橋梁メーカーを選びました。それから私の橋梁人生がスタートしました。当時は設計に配属され、担当した物件が目の前の工場で大きな鋼材を切断・溶接・組立され、仮組立と橋梁のスケールの大きさにやりがいを感じました。また、工場の諸先輩方々に昼も夜の居酒屋でも怒られていたような記憶が思い出されます。 入社して2年程度たったあたりから、首都高速の変形ラケット型橋脚で上部工との剛結構造の物件をJV設計事務所で作業をやらせていただき、設計業務の難しさと同業者の方と机を並べて仕事する面白さを教えていただきました。またその後、阪神・淡路大震災後の復旧工事のため、千葉から大阪に出向して1年ほど設計JV業務をさせていただいたことは、自然災害の恐ろしさと、復旧・復興に多少なりとも関われたことは、現在の糧となっています。 そうこうしている間に工場が移転し、勤務地が千葉の松戸から富津へ移動になりました。そこで社内の夜の席で製造部門の上司の前で、「将来は、製作の仕事がいいと考えています。」なんてここでも適当なことを言ったら、即、製作部門への辞令が出ました。そこからは、橋梁の製作担当者として、全国各地の物件で発注者、同業者の方々と出会い、時には辛いこともありましたが面白楽しく仕事をやらせていただきました。その後は、工場の製造部門に配属され、工場で実際に物づくりされている方々、またそのサポートをされている方々と密接に仕事をすることが出来ました。10年前には会社が合併するといった大きな出来事があり、20年以上、千葉の富津工場に勤務していたのですが今年の1月からは、和歌山工場勤務となり、現在に至ります。 そんな中でも会社業務以外で、鋼橋技術研究会、土木学会等の部会、委員会に参加させていただき、特に一般社団法人日本橋梁建設協会においては、入社して5年目のころからのデザインデータブック改訂ワーキンググループから始まり、製作部会については、15年もの長い間お世話になりました。その間、製作小委員、品質小委員会等の委員会の参加、橋梁技術の変遷の編集、技術発表会における発表と様々な経験をさせていただき、また最近までは、i―Bridge推進特別ワーキンググループに参加させていただき、各部門の方とともに、最新技術、未来に向けた技術等を発信、発表させていただいたことも大変勉強になりました。 社内での業務、社外での活動を通して様々な方と出会い、また、今年からの転勤で、また新たな方々と出会うことができました。そういった色々な方々に支えられて、今日があるのと、橋が架けられていくのだと改めて感謝しています。最近は、インターンシップを通して多数の学生が訪問してくれます。そういった若い方に、魅力のある、夢のある橋梁業界にできるよう微力ながら精一杯協力させていただきます。 次は、鋼橋製作で欠かさせない品質のよい鋼材、溶接材料を供給していただいている株式会社神戸製鋼所で、その中でも、一般社団法人日本鉄鋼連盟と一般社団法人日本橋梁建設協会との繋がりで色々とご相談に乗っていただいている松下政弘様にバトンをお渡しいたします。

愛知製鋼