30年を振り返って

仲野 孝洋(一財)首都高速道路技術センター
構造技術部鋼構造技術課 担当課長
仲野 孝洋

橋歴書の執筆依頼を受け、これは良い機会だと思い改めて橋梁との関わりを振り返ってみた。1989年に木更津工業高等専門学校を卒業し、首都高速道路技術センターに入社したのが今からちょうど30年前。入社した年の秋に横浜ベイブリッジが開通し、レインボーブリッジや鶴見つばさ橋の建設が進んでいる時期でした。入社後は施工管理や積算を行う部署に配属。新設工事に関する業務が主であり、レインボーブリッジの主塔が立ち上がり、ケーブルが渡される様など日々建設が進むのを楽しみに現場に足を運んでいました。 1993年に保全部門の部署に配属となり、主に橋梁点検に従事しました。2000年頃から鋼製橋脚隅角部の疲労損傷が問題となり、この頃は鋼製橋脚隅角部の調査に追われる日々でした。 2002年に当技術センター内に発足した緊急補強対策室に配属になり、鋼製橋脚隅角部の詳細調査や対策検討に従事しました。 緊急補強対策室では「現場に行き実際のき裂を見る」ということを叩き込まれ、き裂の発生位置や継手形状、溶接状態などを現場で確認した上で原因究明や対策検討を行う事を教わりました。さらには発砲スチロールで隅角部の模型を作り、何故き裂が発生するのか?き裂の起点はどこか?など模型を囲んで議論したことは良い思い出であり、私の疲労対策の原点でもあります。 鋼製橋脚隅角部の対策にあたっては、三木千壽先生(現東京都市大学学長)をはじめ、学識者の方々、橋梁関係のエンジニアの方々から橋梁製作や非破壊検査、解析、計測などについて様々なことを教えていただきました。この時に身に着けた技術は現在も役に立っており、疲労対策を行う上でのベースとなっています。 2008年8月に首都高速5号池袋線の熊野町でタンクローリーが横転・炎上する事故が発生しました。熱で主桁は飴のように変形し、路面は60㎝ほどの段差が生じていた。当時、現場調査に行き復旧工事は困難であり、交通解放までは時間がかかるだろうと思いました。全橋架け替えは、長期の全面通行止めとなり渋滞等の社会的な影響が大きくなるため、被災の少ない桁の安全性を確認し、部分交通開放を行うことになりました。ここでは主に、既設桁の安全性を確認するための計測と交通開放後のモニタリングを担当しました。FEMや骨組み解析で健全性を確認し、問題ないとは思っていたが、いざ試験車両を走行する際は緊張しながらモニターの動波形を監視していたことが印象に残っています。 その後、床版・桁撤去、とステップ毎にモニタリングを実施し、無事に全面交通解放を迎えました。この現場では、首都高速道路網の重要性を再認識し、「復旧」という我々の仕事が社会に貢献し、貢献することができると実感した仕事でした。また、各関係者が「早期復旧」という目標を達成するために一体となり、成し遂げることができた貴重な経験でした。 2011年の東日本大震災では首都高の橋梁も被害を受け、湾岸荒川橋や大黒JCTの損傷調査や交通解放に向けたモニタリングを担当しました。また、2014年、2015年にも火災により被災した橋梁の損傷調査とモニタリングを担当し、ここでは首都高速5号池袋線での経験が大いに役立ちました。 改めてこの30年を振り返ると多くの方々からのご指導とご協力があり、これまで橋梁の仕事に携わることができたと思います。この場をお借りして深く感謝を申し上げます。 今後は、橋梁を健全に保つことで社会に貢献し、更なる技術力の向上と、今までに教えていただいた技術を次世代に伝承することで橋梁に携わっていきたいと思います。 次回は、現場調査などで共に汗をかき、お世話になったMKエンジニアリング竹渕敏郎氏にお願い致します。

愛知製鋼