1964年の五輪、小欄記者は高校3年生で、東京から遠く離れた故郷の片田舎(青森県八戸)でTV中継を見て、五輪への期待に胸躍らせていた▼時代は高度経済成長のまっただ中、カラーテレビが新3種の神器の一つとして喧伝、各家庭こぞって買い求め、経済効果は相当なものだった▼首都高速道路などオリンピックに向け整備された高速道路は言うに及ばず、同じく高度経済成長期の中、調査が進められた本四架橋事業は、1969年、新全国総合開発計画に3ルート建設が明記されている▼全世界のスポーツ選手が集まった五輪にも似て、本四架橋は当時の橋梁技術の集大成とも言え、記者としても思い出深いのが因島大橋▼1号橋の大三島橋(アーチ橋)に続く2橋目だが、吊り橋では初となるもので、鍬入れ式から取材している▼施工中は島内の生活道路に石ころ一つ落とさない念の入れよう、安全性こそ事業の要という方針の表れは凄味すら感じたものだ▼多種多様な橋種に、最先端の技術が軒を連ねるがごとくの事業だったが、まさにこれら地道な努力こそが橋梁事業のパイオニアたらしめたと言えるだろう。