株式会社IHIインフラシステム
安全衛生環境部HSE第1グループ
阿部 信幸
私は、現在、IHIインフラシステムで、主として安全に関わる業務に就いています。今回、橋歴書の執筆依頼を受け、自分の橋歴など既執筆者の方々とは比にならないと思いましたが、これも〝いい機会〟と前向きに捉えて、自身の今までを振り返ることで私の橋歴に代えさせていただきたいと思います。 橋梁というのは、業界の棲み分けとしては〝土木〟になると思いますが、土木と全く関係のない環境で育った私が、何故、土木、橋梁と関わることになったのか… 今から35年前。高校を卒業したら就職するつもりでいた中学3年生の私は工業系の高校に入学することを目指していました。それも志望していたのは、機械系の学科。併願で挑んだ受験でしたが、滑り止めの私立高校受験に失敗。結果、公立高校受験の際、志望高校を変えるか、志望学科を変えるかの選択肢に迫られた私は志望学科を変えることにし、当時、競争率が低い土木科を受験し合格しました。 入学した高校が大阪市立都島工業高等学校の土木科(現、都市工学科)です。ここで〝土木〟とは何たるかを学ぶことになりました。測量が得意だった私は測量士を目指すべく測量士補の資格を取得し、卒業後は測量関係の仕事に就くのだろうと思っていました。 しかし、大きく気持ちが変わったのが修学旅行です。大方の高校の修学旅行は2年生の冬にスキーというのが定番でしたが、我々は3年生の夏前に四国一周という修学旅行でした。私の勝手な思い込みですが、四国一周については、生徒は誰も望まない、先生方だけが大喜びしていたように思います。何故ならば、高校3年の春(1988年4月)に瀬戸大橋の児島・坂出ルートの全線開通を迎え、先生方は〝生徒達の為〟との建前を背に企画されたと思っています。とは言いつつも、修学旅行という面では、大いに楽しめたし、今でもいい思い出として記憶に残っています。 そして、その修学旅行で見た瀬戸大橋に魅せられたのが何を隠そう私自身でした。初めて超巨大な橋梁を見て、自分もこんな世の中の為になる構造物の製作や建設に関わりたいと思ったのを記憶しています。これが橋梁との大きな接点になったのは言うまでもありません。 その後の就職戦線において、橋梁会社からの求人を求めていた私に1社だけ求人がありました。日本橋梁という関西老舗の橋梁メーカーです。私は、迷うことなく橋梁に関わる仕事をするために日本橋梁に入社しました。入社研修の際に、出荷を控えた関空トラスの桁上で夢を踊らせていた頃を懐かしく思います。 しかし、入社後に予想外の出来事が起こります。当時の日本橋梁は鋼構造物の製作メーカーとして、橋梁・鉄塔・鉄骨の3本柱で運営されており、私は鉄塔部門に配属されたのです。履歴書に橋梁志望を記載していたのもあり、当時の上司が「鉄塔にも橋梁とは違う魅力があるので一緒に頑張ろう!」と励ましてくれたのを覚えています。 配属は〝原寸〟という職種で、大工さんが使う道具〝墨つぼ〟と〝差金〟を使って、広大な床一面に等身大の鉄塔を描き、それを透明フィルムや帯鉄に写し撮り、工場に製作情報を提供するという部署で約11年勤務しました。 その後、会社が鉄塔事業から撤退することになり、橋梁部門に異動しました。その頃には、学生時代に思っていた橋梁に対する思い入れも薄れていましたが、気持ちを入れ直して橋梁製作に尽力しました。職種は同じ〝原寸〟でした。この頃の工具は〝墨つぼ〟がパソコンの〝マウス〟に変わっています。 そこから11年間、橋梁原寸で仕事をしましたが、当時の会社の背景や事情を鑑みた上で、新たな世界に挑戦してみたいとの思いから2011年に退職することにしました 〝新たな世界〟と思っていましたが、転職活動をしている最中にエージェントから紹介されたのが、現在勤めている会社です。一度は、橋梁から離れようとしましたが、ここで再び橋梁と繋がることになりました。 今の会社では、橋梁原寸、製造スタッフを経て、2018年4月から安全に関わる職場で工場安全に尽力しています。 最近の大きな出来事は、2018年の台風21号で被災した関空連絡橋の復旧工事を竣工できたこと。先にも書かせていただきましたが、入社当時に製作していた関空連絡橋に、このような形で再び関わることになろうとは夢にも思いませんでした。 これからは、今まで自分が培ってきた技術や経験を若手技術者に伝えつつ、向上心を持って工場安全について取り組んでいきたいと思っています。橋梁工事で悲惨な事故が起きないことを祈りつつ… 次回は、高校の後輩で前の会社で一緒に仕事をした日本橋梁の脇一理さんにバトンを繋ぎたいと思います。