宇部興産機械株式会社
工事部橋梁工事グループ
谷脇 敬一郎
至誠通天。私が住む長州・山口県で知らない人のいない幕末の思想家、吉田松陰先生がよく説かれた言葉で「誠を尽くして一つ一つの課題に取り組み、努力をすれば願いは必ず叶う」という意味です。 私は大学の土木工学科を卒業後、交通安全施設業の会社に就職しました。その会社では、自ら積算し入札会場に行き(何度入札に行っても緊張し震えた手で入札箱に札を入れたことを思い出します)、受注後は計画から調達、現場管理を行い、竣工までの一連を1人で行うこともありました。多種多様な仕事にくじけそうになりながらも、目の前のことに無我夢中で対応する日々を送っていたところ、縁あって現在の会社、宇部興産機械にお世話になることになりました。 元々モノづくりに興味があったので、面接時に「前職の経験を生かせる現地で施工管理ができる部署」を希望しましたが、当時会社が採用を予定していた職種ではなかったため面接官を困惑させてしまいました。ところが「公共工事の監督経験もあり、資格もあるのならまさに橋梁工事にふさわしい」と言っていただき、橋梁の現場技術者が不足していることもあって、面接官であった当時の常務の機転とご配慮で、今の工事部橋梁工事グループに配属されることになりました。 入社当時は、橋梁に関する知識はほとんど無く、箱桁や鈑桁がどっちを向いているかも分からない自分に、諸先輩方から現場や教材等で一から丁寧に教えて頂きました。早く現場責任者として一人前の技術力を身につけ期待に応えたい想いで、一生懸命勉強しました。時には厚い施工計画書を引っ提げて現場で施工状況を確認している私に、職人さん達も「この作業手順はどうしてこのようにするかわかるか?」等とクイズを出題してきたりして、その場が即席の勉強会になることもありました。大きなものの考え方から細かいことまで色々な先輩の方々に、まさに現場で教わりながら施工管理という仕事を覚えてきました。 数年後、初めての現場代理人を任されたのが東九州自動車道の現場でした。変断面の鈑桁橋あり、ポータルラーメン橋ありとそれぞれ違う形状の橋梁5橋を架設する工事で、その当時としては珍しい延長床版もありました。まだまた未熟者だった私が先輩方の指導や会社のサポートもあり、どうにかこうにか現場代理人としての責務を果たせたような、ほろ苦いデビューの現場でした。 次に思い出深いのが、広島県の本川河口付近に架けた鋼6径間連続箱桁橋で、中央径間をポンツーン(台船)工法で架設する現場です。潮の満ち引きの力で架設をするとは、「何て原始的な工法なんだ」という初めの印象でした。 牡蠣の養殖が盛んな現地に乗り込んでみれば、関係官庁や観光船業との調整や漁業組合のみなさんの協力なしでは施工できない工法でした。また、張り出し桁や台船に載せる桁の高さ、架設当日の潮位を緻密に計算し、架設済みの桁のオフセット量やセッティングビームの高さまで何回もチェックして準備しましたが、最終的には神のみぞ知る、架設できるかどうかは天候次第の緊張感の絶えない現場でその時を待ちました。そして至誠通天、幸い天候は晴天で、潮も「ベタナギ」という絶好のポンツーン日和に恵まれ、無事架設することが出来ました。 今思い返せば、上司や先輩方のご指導はもちろん、同僚、現場の仲間、家族、私の周りのすべての人のご協力・サポートがあったからこそ、今の自分があるように思います。これまで育てていただいた多くの方に感謝し、今度は自分が後輩たちに指導やサポートが出来るように、これからも誠心誠意一つ一つの課題に向き合いながら、技術力の向上に努めてまいります。 次は、埼玉県の圏央道高架橋の工事でJVを組み、共に切磋琢磨した古河産機システムズの大須賀弘様にバトンを渡します。