株式会社川金コアテック
執行役員技術本部長
姫野 岳彦
私は、武蔵工業大学(現校名は東京都市大学)で機械工学を専攻し、卒論は「画像処理を利用した強度評価法の開発と極細線への適用」でした。 このため、当時は今のように橋梁の世界にどっぷり浸かるとは想像もしていませんでした。卒業後、川口金属工業株式会社(現社名は株式会社川金コアテック)に入社したのは橋梁を支える〝支承〟の技術者を意識した訳ではなく(むしろ支承という言葉も知りませんでした)、金属材料をやりたかったからでした。 そんな中、入社した1996年は兵庫県南部地震後の激動の時期のため、すぐに支承の設計実務に没頭することになりました。この震災直後に耐震設計の観点から支承を考える機会があったことは私の出発点になったと思います。 その後の27年間を振り返ると、3回の転機があったように思います。 一つ目は、入社6年が経過したある日、「土木研究所に交流研究員として出向」の矢が刺さったことでした。私は機械が専門でしたし、少しだけかじった橋梁も支承という一部材(当時は橋梁付属物の位置づけ)しか知らない状況でしたので、何も勝算がないままでの挑戦となりました。この時、「地震力遮断デバイスを用いた高免震構造」をテーマに、すべり免震の技術をじっくり考える2年間を過ごしました。 不安一杯での着任でしたが、運上茂樹上席研究員(現東北大学教授)に暖かく、そして貴重なご指導をいただけたこと、また多くの研究員の方とたくさんの議論ができたことは大きな財産になりました。任期満了時には最初の心配が嘘のように、帰任したくないと思うほどでした。 二つ目は、会社に戻り、デバイスの開発業務を行いつつ、新しく海外市場に日本の支承技術の事業展開を模索するミッションを担当したことでした。 もちろん語学の壁もありましたが、それ以上に自分の知識が海外で通用するものか?の不安が大きかったです。実際に現地に飛び込むと、まず国内とは違うニーズ、考え方に驚きました。 一方で支承技術への理解が得られたことは自信につながりました。その際、ハノイ交通大学のTrinh教授には様々な助言をいただき、大変お世話になりました。また橋梁工事への参加機会にも恵まれ、その中でも日越友好橋の名も持つNhat Tan橋はとても印象深いです。この橋を通るたびに当時を鮮明に思い出します。 そして三つ目は、社会人ドクターに挑戦する機会があり、北海道大学の林川俊郎教授(現名誉教授)のご指導で支承・免震の分野で博士号をいただけたことです。研究の際に様々な議論を重ねたことは貴重な時間となりました。 振り返ってみると、多くの方に支えていただいたことが私の橋歴そのものと感じています。 支承は「支えること」がその役割です。それは「縁の下の力持ち」として、とても重要なものです。これまで、この「支える技術」は多くの橋梁技術者との議論と支えによって進化してきました。その発展に私も貢献して行きたいと思っています。 現在、私は、一般社団法人日本支承協会の活動も進めています。その中で支承のあり方についてご指導をいただいています西日本高速道路会社の大城壮司事業部長にこのリレーのバトンをお繋ぎしたいと思います。