西日本高速道路株式会社
四国支社建設・改築事業部 部長
大城 壮司
1993年(平成5年)に大学を卒業し、日本道路公団に就職しました。この年はJリーグの発足やレインボーブリッジが開通した年でしたが、翌年にバブルの象徴であったジュリアナ東京が閉館するなどバブル崩壊の影響を受けた厳しい年でもありました。 1995年(平成7年)1月17日に兵庫県南部地震が発生し、当時入社2年目の私は2月8日から大阪で中国道の復旧工事に従事することになりました。支承とシュー、鳥居枠とビティなど会話で使われる用語の違いもわからず、当時は職場にインターネットがなかった時代ですので、先輩方々に一つ一つ聞きながら復旧工事に携わりました(コピー係くらいしかできませんでしたが)。構造物がどのように壊れるのかは今でも記憶しており、剛な部材は耐力を超えた途端にとんでもない壊れ方をするものだということが強烈な印象で、この経験が現在の思考の柱になっていると感じることがあります。 1997年(平成9年)からは大阪建設局(当時)の構造技術課という橋梁の設計や工事を専門に担当する部署になりました。道路橋示方書や設計要領をただ記憶するだけで技術者としての業務らしいことはできませんでしたが、インハウスエンジアとしての視点や考え方を学んだことが大きな成果になりました。 その後、九州で3年間ほどトンネル工事や土工工事、地元協議などを経験し、2003年(平成15年)に日本道路公団本社の構造技術課に異動になりました。ここでは技術者の視野の広さや思考の深さを学んだと思います。先輩等との飲み会では世界の橋の話題になることが多々あり、なんでそんなことを知っているんだ?そういった趣味の人なのか?といつも思っていました。しかし、新技術や現場の課題解決に携わるようになると、やはり海外の規準や動向は大変参考になり、そこで先輩たちの視点が理解できるようになりました。このころに鋼コンクリート複合構造の採用や非線形解析による照査が一般的になり、PCグラウトの充填問題などを含め課題も多くありましたが、様々な機会によってお付き合いさせていただいた橋梁業界の技術者は日本トップクラスの方々ばかりでしたので、相談相手に困ることがなく、難しい問題でもなんとか解決策は見つかるものだ、ということも学びました。夜中の2時や3時にメールが飛び交うというのもこの時経験しました。 その後、日本道路公団の分割民営化を迎え、西日本高速道路に配属となったのですが、それからも橋梁に関する業務に従事する多くの機会をいただきました。2016年(平成28年)の熊本地震では24時間体制で現地対応し、その直後からの新名神高速道路建設でのトラブル対処、現在実施している橋梁の床版取替などの特定更新事業の準備など、あっという間に現在に至った感があります。 これまでを振り返ると、あまりにも多くの方々にご指導をいただいてきましたので、本稿で特定の方をエピソードを添えて表すことができないことをお詫びいたします。 次は、現在の諸問題について常々ご指導いただいております、神戸大学大学院の三木朋広先生にバトンをお繋ぎします。