想いを持って仕事にあたる

松本 茂阪神高速道路株式会社
技術部専任部長
松本 茂

明石工業高等専門学校土木工学科、長岡技術科学大学、同大学院(都市計画研究室)を経て、1987年に阪神高速道路公団(当時)に入社しました。文系科目が苦手で高専に進んだものの土木に特段の興味を持てないまま5年が過ぎ(一番面白かったのは生物学でのDNAの講義だった)、何となく進学した長岡ではバンド活動に専念し、就活で苦しんでいたところを阪神高速に拾ってもらったのでした。 阪神高速では橋梁関連以外にも様々な仕事に携わりましたが、今では死語となった「半官半民」の組織が民営化され、永久構造物のはずだったコンクリート構造物は「危ない」、「重い遺産」と言われ、関係無いと思っていた大地震を経験し……、当たり前だったことが変貌する様に直面し、物事の本質を見極める大切さを思い知らされました。 最も印象に残ったのは、「ASR劣化構造物での鉄筋破断」でした。靭性を有する鉄筋が本当にASRの膨張力で破断するのか?その際の構造物の安全性は?誰もが疑問を持つ中で、事もあろうに小職が担当となり、宮川豊章先生をはじめとした多くの学識者・技術者の方々に助けていただきました。この種の重大事案は公表を控えたいとの力が働きがちですが、阪神高速の伝統なのか学識者や業界の方々と胸襟を開いて課題解決にあたる土壌があり、そのおかげで苦しい中を乗り越えることができたのだと思っています。宮川先生のお人柄にも惹かれ、以来、コンクリート構造物の維持管理の重要性、難しさ、やりがいを感じるようになりました。 最後に、今年、港大橋が開通50年の節目を迎えフォトコンテストや各種ツアー、講演会など多彩なイベントが開催されましたので、少し触れたいと思います。 港大橋製作報告書の序文は、「灼熱の鉄を鍛えた紅の港大橋は予定どおり昭和49年7月15日無事開通した」という熱い一文で始まります。また、プロジェクトのリーダーだった故笹戸松二部長による港大橋工事誌の「はじめに」には、次のような一節があります。「昭和45年7月15日着工し、以来、丸4年の短期間の間に、規模、材料、工法等、新技術の開発を行ない、わが国における長大橋梁の先兵として数多くの未知の問題点を解決して完成したのであります。これらの解決の方法としまして、技術的フィロソフィーの着目点として耐荷力並びに破壊に対する考え方を原点に戻し、より合理的な解決につとめました。この意味からも、本橋の真の評価は長年月にわたって受けねばならぬ自然条件等の試練に耐え、その機能を果たし終えたときに、はじめて価値づけできることができるわけであります」 この橋に込められた想いや努力が、行間からヒシヒシと伝わってきます。笹戸先生からおしかりを受けるかもしれませんが、「末裔」の一人として、想いを持って仕事にあたる大切さを改めてかみしめるところです。構造系には興味の無かった小職ですが、大学時代、なぜか笹戸先生の構造力学は履修しました。当時は前職が阪神高速だったことも港大橋の存在も知らず、その後、自分が阪神高速に入社するなど夢にも思いませんでしたが。不思議なご縁を感じます。 次回は、JFEエンジニアリングの佐々木一則様にバトンをお渡し致します。

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