大日本ダイヤコンサルタント株式会社
CSR本部 理事
松井 幹雄
大学時代の橋梁設計演習で橋の設計に魅了された。けれども、卒業研究での与えられたテーマに創造の喜びを見出せず、社会人になる際は、心から惹かれる仕事でなければ人生の歓びは見出せないと思うようになった。そして、大学院時代、出版されたばかりのレオンハルト博士のブリュッケンを情報源に、欧州橋めぐりのひとり旅に出かけた。 そこで、美しい橋を設計する人になる、との決意を新たにし、橋の文化にも造詣の深い経営者(川田忠樹氏)のもとでなら道は拓けるかもと思い、川田工業に入社。上司、先輩、同僚、そして機会に恵まれ、成長の手応えをつかむ。 27歳、転機が訪れ、大日本コンサルタントへ転籍。初心である美しい橋を設計するチームをつくるべく、景観デザイン室の立上げ準備を始める。手本となる前例も資料もない中、手探りで始めた矢先、柳宗理氏(当時73歳)と連携する仕事を会社が提供してくれる。そこから、四谷にある柳工業デザイン研究会の事務所に通いながら、いくつかの仕事を通して、模型を手作りしながら考えるデザインの方法と哲学を学ぶ日々が始まる。 並行して、当時はまだ珍しかった3次元CGの利用開発にも取り組み、会社オリジナルの橋梁デザイン手法を確立していった。 私自身、1万行ほどのコードも書いて、構造物形状をパラメトリックに生成・検討し、柳事務所流の模型を活用した右脳(直感・感情)とCGを活用した左脳(論理・理屈)の両輪で仕事を進めた。 同じ頃、造園系雑誌に世界の橋の写真年表をつくり、歴史を学ぶ大事さを再認識。以降、全ての仕事で、その対象物と周辺地域の歴史を調べるようになった。そこに未来を考えるヒントが埋め込まれていることに気づいたからだ。 このようにして、橋の設計に没頭する生活に入っていったが、時は流れて、現在、65歳定年を半年後に控える。 だいぶ前から、主体的に設計することはなくなったが、その代わりに後輩の活躍とか、供用中の橋が表彰されたとか、嬉しい話を聞くようになった。 振り返ると、築地大橋などで土木学会田中賞を4回、竹芝デッキなどでデザイン賞を10回、受賞経験をさせていただいた。時を経て関係者全員が喜びを分かち合える良き節目となっている。 そのひとつに、20数年前から関わり、10年ほど前に開通した富山大橋(L‖465メートル)の架け替え事業があり、昨夏、高欄を清掃するボランティアに参加してきた。橋軸正面に立山連峰の絶景が見える風景が地元の方々にも愛されている様子がうかがえ、また、新しい知己も得て、設計者冥利を噛みしめてきた。 設計時に一番大切にしたコンセプトが、人々に受け入れられたことを実感したからだ。地域の気候、風土、歴史的経緯、そしてあらゆる関係者との連携、それらを土台に技術を駆使する仕事、それが橋の設計だとの思いも新たにした。 土木は終わりのない駅伝。先代から引き継いだ「たすき」を次世代に、よりよい状態(Well―Being)にして渡すのが仕事。この認識を胸に、これからも好奇心を原動力に、No Bridges No Lifeな人生を楽しむつもりだ。 次回は、東工大・非常勤講師として同じ演習講座を担当し、今も土木学会委員会をご一緒している橋仲間のお一人、国士舘大学の二井昭佳さんにお願いします。