百年後の鋼橋のため

清川昇悟株式会社 横河ブリッジ 技術計画室大阪技術計画部 主幹 清川 昇悟

私は鹿児島県の枕崎市という港町で生まれ育ちました。父は木工業を営んでおり、その手伝いで幼い頃からいろいろな建設現場に出入りしていました。そんな私にとって土木・建築業はごく身近な職業であり、高校で進路を決める際も特に迷うことなく土木工学科を志望しました。  1994年に名古屋大学土木工学科に入学しました。研究室は宇佐美勉先生の構造研です。当時は1995年に発生した兵庫県南部地震の後で、耐震設計に関する研究が盛んな時代でした。そこで鋼製橋脚の保耐法、免震沓や地盤との連成効果について研究しました。非線形解析は時間がかかるため、夜遅くまで研究室に残って解析結果を確認し、新たなケースを流して帰るという生活でした。この時に身に付けたFEM解析のスキルは現在も役に立っています。  2000年に横河ブリッジに入社し、研究所に配属になりました。当時は鋼製橋脚隅角部の疲労損傷が大きな問題となっていました。首都高速道路公団と橋建協との共同研究に参加し、隅角部疲労損傷の一因であるせん断遅れ応力を低減させるためのフィレット構造の解析検討を担当しました。現在もある三角形板の端部が円弧で擦りつくフィレット形状は、この時の検討をもとにディテールが決定されました。今思えば、この仕事が疲労に関する研究に携わるきっかけになりました。  2005年から2年間、首都高速道路技術センターに出向し、首都高の鋼床版や鋼製橋脚に発生していた疲労損傷の点検・調査・補修対策の検討などに従事しました。この期間に多くの現場で実際の橋梁に生じた疲労き裂に触れることができたのは非常に良い経験でした。超音波探傷など非破壊検査に関する知識・技術もこの時に身に付けました。何より、首都高グループはじめ他社のエンジニアの皆さんと多く知り合えたことが大きな財産となりました。  この頃、印象に残っている仕事があります。弊社が昭和50年代に製作した鋼製橋脚で、隅角部の十字継手にエレクトロスラグ溶接を用いたものがありました。当時としても他に例のないチャレンジングな構造でしたが、一部に溶接きずが発見されたため、その調査を担当しました。製作当時の文献を調べ、当時を知る先輩方に製作方法をヒアリングして発生原因を分析しました。その際、定年を控えた先輩が「当時は良かれと思い検討したものだが、結果的に迷惑をかけてすまなかった」と仰いました。この時、我々の仕事は数十年経ってからその評価がなされるものであるということ、その難しさと責任の大きさを痛感しました。  2003年から現在に至るまで、JSSCの疲労の委員会に参加させて頂いております。フィレット付き面内ガセット継手の疲労強度に関する検討では、IIWなどの諸外国基準にあるような半径の上限値を導入すべく、数百ケースのFEMと疲労き裂進展解析を行いました。今般改定された道路橋示方書にその成果が反映されています。小さなことですが、今後は箱桁の横桁仕口フランジなどで過大なサイズのフィレットが取り付くことはなくなり、すこし合理化されると思います。  現在、名古屋大の舘石和雄先生のもと、社会人ドクターとして高力ボルト継手や当て板補強法に関する研究を行っています。まだまだエンジニアとして半人前で、学ぶべきことが多いと感じる日々です。新示方書では橋の設計寿命が百年に規定されました。百年後の鋼橋を少しでもより良いものとするため、微力ながら研究開発に携わっていきたいと考えています。  次は、委員会で大変お世話になっている鉄道総合技術研究所の小林裕介様にバトンを渡します。

愛知製鋼