古い話で、若い橋梁人はすぐにはピンとこないかもしれない。所謂「石油危機」「石油ショック」の柔軟な克服が今のわが国橋梁文化の進化の契機となっていることを▼当時(昭和48年)、明石海峡大橋の取材で、神戸市を訪問していた。地元夕刊紙の「トイレットペーパーが品切れ」の大見出しに度肝を抜かれた。それが石油危機の前触れだった。そのショックは瞬く間に全国に広がり、政治経済的にも「総需要抑制」策などが執行され、公共事業は軒並み停止、延期に▼吾唯知足子が鳴門公園展望台から見た雨上がりのもや立ち込める鳴門の渦潮はいつにも増して急潮流だった。この激流に未経験の多柱基礎を建設できるのか、と。小河内ダムでの施工試験があったとはいえ、だ▼次の宿泊地は尾道。石油危機で消灯した薄暗い連絡船の発着待合室で大島などに帰島する学生などの声になごんだ。漁火の見えない急潮流の来島海峡を渡海する時、石油危機のせいかやけに緊張していた▼千光寺公園展望台からしまなみ海道の先人である道路公団が建設した「尾道橋」が左手眼下に見え、向島などへのルート架橋群に胸が躍った▼春秋に富む若人だからこそ橋梁技術の開発、進歩とともに、こうした背景を知っていてもらいたいものだ。