確かな安全を目指して

中央復建コンサルタンツ中央復建コンサルタンツ㈱
構造系部門橋梁・長寿命化グループ統括リーダー坂本 眞徳

首都大学東京の中村一史先生よりバトンを譲り受けました中央復建コンサルタンツの坂本です。これを機に、私が橋梁の世界へ入ることになった経緯や、深く思い出に残る仕事のことなど、若き世代へのエールの気持ちも込めて、振り返ってみました。
私は愛媛県石鎚山系の麓にある農村で育ち、物心がついた頃からそこに美しい景色があることが至極当然のことでした。ある日のこと、山の中腹あたりに突然現れた白いガードレールやコンクリート擁壁。当時、小学校高学年であった私は、この美しい景観を損なう開発(センス)に不満を感じ、「私がもっといいものを作ってやる!」と考えたのが、土木を志す始まりでした。高校生になって進路を決める際には、「人のため世のため」になる仕事がしたいという思いも積り、公共のための仕事をしながら食べていける、正に一石二鳥である「土木」の道を選択することは容易でした。その後、大学に入って橋梁工学を学んでから橋梁のことに強く関心を持つようになり、卒業研究ではコンクリート橋の限界状態設計法に取り組み、そのまま建設コンサルタント会社に入社して橋梁設計に関わり続け、いつの間にか35年が経ったという次第です。
思い出深い仕事としては、和歌山県富田川に架かる「郵便橋」の拡幅設計で、鋼桁の主桁補強としては当時国内初だったPC鋼棒補強を採用したこと、「高野高架橋」(新名神)で手作り模型や写真を駆使して景観検討を行い額縁形状によるRC門型橋脚を採用したこと、昨年完成した「小名浜マリンブリッジ3号ふ頭部橋」の設計に加えて、杭の施工中に大津波による被害を受けことに対して、緊急対応として場所打ち杭の調査・対策方法を提案し、改良設計まで実施したこと、最近のものとしては、著名橋である「聖橋」の橋梁長寿命化設計や、現在工事の真最中である「渋谷駅東口デッキ」の架替え設計などでしょうか。
あと、私の専門の方向性に大きく影響したのが、1992年から2年間の阪神高速道路公団設計課(当時)への出向でした。当時、阪神高速は1994年5月の湾岸線全線開通に向けて工事が最盛期にありました。様々な研究開発も盛んで、私は岸和田大橋の架設用ベント基礎を用いた実杭載荷試験(単杭・9本群杭)を担当する機会を得ました。この規模の載荷試験は世界でも稀であり、20世紀最後の実杭載荷試験として高く注目されていました。これをテーマに地盤工学会や構造工学などの論文を書かせて頂くなど、油が乗り始めた30代前半の時期に貴重な実験・研究に携わることができたことは、非常に幸せなことでした。「運を味方にする」とは言いますが、私を鍛え変えて頂いた2年間でした。
この仕事を始めたころ、建造物の中で最も安全な場所は「橋の下」だと豪語していました。阪神淡路地震が起こり、その安全神話は一夜にして崩れ去りました。自慢だった阪神高速湾岸線における単純桁落橋のニュースは、涙が出る程の大ショックでした。それ以降「絶対に安全」は、心の中で禁句となっています。ただし、安全で良いものを作ることは、公共事業に携わる我々に課せられた使命です。基準一辺倒だけで達成できないことは、多くの災害や事故で実証済です。確かな安全を得るために、適切かつ柔軟な判断ができる技術者となるには、まだまだ数年かかりそうです。
次は、2006年のFIBナポリでご一緒させて頂いたニュージェックの石井良尚氏にバトンを繋ぎます。

愛知製鋼