土木設計本部構造設計部橋梁グループ設計長
藤代 勝
私が橋梁に興味を持ったのは,中学生の時に家族で出かけた旅行がきっかけでした。その旅行の行先は,香川県坂出市の瀬戸大橋記念公園です。愛媛県新居浜市の田舎町に育った私は,人間が造ったわが目を疑うような巨大な構造物(具体には番の州高架橋のコンクリート壁式橋脚)をみて度肝を抜かされました。こんなものが造ってみたいと。 大学受験では迷わず土木工学を進路として選択し,岐阜大学に進学。岐阜大学大学院ではコンクリート研究室で繊維補強コンクリートに関する研究をしました。鹿島建設に入社が決まり新入社員としての配属先は,橋梁の設計部門。縁はつながるものだなと不思議な思いがしました。 職場で私の思い出となる最初の詳細設計は,東海北陸自動車道の下田橋で波形鋼板ウェブPC橋の詳細設計です。中央支間は136mで,同種橋梁では当時の最大スパンの橋梁でした。ブロック数の多い張出し施工かつ全外ケーブル構造のため,柱頭部や偏向部の3次元的PC鋼材配置に苦労し,繰り返し上司に指導を受けながら図面を苦労して書き直したのが思い出です。また,施工中には何度も現場に足を運び,図面と実施工のイメージの違いを感じ取るのが,後の仕事に役立ったと思います。
4年次に配属された最初の現場は,青森県の三戸望郷大橋でPCエクストラドーズド橋の現場です。中央支間は200mで,こちらも当時最大スパンの橋梁でした。この現場では,上げ越し管理,斜材を含めたPC緊張管理が私の担当でした。プレファブ製品の斜材の発注表をFAXする際には,事の大きさから番号を押しても繋がる前に何度も中断して内容を確認してしまうなど,経験の浅い私にはドキドキする瞬間が思い出です。ここでは,材料や緊張の準備が遅く深夜に上司から怒られたことや,斜材が日射を受けることでPC桁の高さが時間で大きく変化しますが計算結果と合うことに驚きながら自分の目で経験できたことが思い出です。
本社に戻り,技術研究所への異動がありました。ここでは材料グループに配属になり,繊維補強コンクリートの研究開発を担当しました。上司であるグループ長からの暖かくも厳しい薫陶を受け,技術者としてたくさんの知識と経験を積むきっかけができました。
その後は設計部門に戻り,新東名の詳細設計を数橋担当し施工現場への赴任もありました。妻の実家の愛知に帰省する際には新東名を利用しながら,自分の担当した橋梁を渡る際には,伸縮装置の異常はないか,路面の凹凸や壁高欄のラインに視点を合わせて気にしていますが,今のところ問題はないように見えます。
現在の業務は,超高強度繊維補強コンクリート(UFC)製の床版の開発業務をメインに稼働現場の施工支援や社外委員会対応を行っています。興味を持った橋梁,勉強した大学,これまで通ってきた設計・現場・研究の経歴や人脈が橋のように繋がる仕事が続いており,改めて橋梁と不思議な縁を感じます。
橋とは,離れた端と端を結ぶものという意味です。橋は,たくさんの人や物がつながり,利便性が向上して生活が豊かになり,人が出会え,心も結ぶ働きをしているのではないでしょうか。私はこのような橋梁の仕事が,社会を潤すために貢献できるものだと誇りに思っています。当時描いた夢のような大きな橋は造れそうもありませんが,初心を忘れず技術を研鑽して社会に貢献出来たらと思っています。
こんな経験や考えを持つようになりましたが,この20年間,様々な方に教育指導を頂いたおかげで成長できました。上司をはじめ関係者に深く感謝を申し上げます。これからは教えて頂いた技術を若者に伝承していきたいと思っています。
次は業務で関係しているネクスコ東日本エンジニアリングの門平篤志さんにバトンをつなぎます。